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大阪地方裁判所 平成8年(ワ)6348号 判決

原告

大津均

右訴訟代理人弁護士

工藤雅史

被告

株式会社日宣

右代表者代表取締役

大津穣

右訴訟代理人弁護士

荒鹿哲一

平井信夫

主文

一  被告は、原告に対し、金三四万七二一五円及びこれに対する平成七年一〇月二四日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、これを一〇分し、その九を原告の、その一を被告の、各負担とする。

四  この判決の第一項は、仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、三四二万五六九七円及びこれに対する平成七年一〇月二四日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  被告は、広告図案の立案等を業とする会社であり、原告は、昭和三五年八月二一日、被告に雇用され、平成七年八月一五日、被告を退職した。

なお、原告には、右勤務期間中、一年六か月の休職期間がある。

2  被告における退職金の支払いは、退職時の就業規則(退職金規定)に基づいて行われていた。原告が退職した平成七年八月一五日の時点における被告の退職金規定の内容は、退職金の算定の基礎となる額(以下「算定基礎額」という。)に、退職金規定中の支給率を乗じて計算する(なお、年未満の端数は、原則として、月割の比例計算とし、一か月未満の端数は、一か月として計算する。)ものとされていた。そして、算定基礎額は、退職時の基本給すなわち本給(職能給と称されることもあった。)と加給(勤続給と称されることもあった。)の合計額とする旨規定されていたが、原告の基本給は四〇万六一八五円であり、原告の勤続年数三三年六か月(入社から退社までの期間三五年から一年六か月の休職期間を控除した期間)に対応する支給率は、三三・五であったから、原告に支給されるべき退職金額は、四〇万六一八五円に三三・五を乗じた一三六〇万七一九七円である(なお、右退職金規定は、昭和六二年に従前の規定を改定して作成されたものである。また、被告は、後記のとおり、原告の退職時の本給が二六万五三三〇円であった旨を主張するが、この金額は、原告の同意もないままに、一方的に引下げられたものであるから、原告の算定基礎額は、前記のとおり、退職時の本給三一万四二九〇円及び加給九万一八九五円の合計の四〇万六一八五円とすべきである。)。

3  仮に、後記の被告主張のとおり、算定基礎額が基本給(本給と加給の合計額)でなく、本給のみであったとしても、被告においては、その後、再度算定基礎額を本給から基本給にする旨の改定(以下「再改定」という。)がなされた。

4  また、前記昭和六二年の退職金規定の改定がなされていなかったとしても、被告は、昭和六二年から平成七年までの約八年間にわたり、退職者に対し、例外なく基本給を基礎に退職金の算定及び支払いをしてきたことを考えれば、被告においては、算定基礎額を基本給として退職金を算定するとの慣行が成立していたというべきである。

5  しかるに、被告は、原告に対して、一〇一八万一五〇〇円の退職金を支払っただけで、残金三四二万五六九七円の支払いをしない。

6  よって、原告は、被告に対し、未払退職金三四二万五六九七円及びこれに対する弁済期後である平成七年一〇月二四日から支払いずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2の主張は争う。

原告が退職金算定の根拠として主張するのは、昭和六二年に改定された退職金規定ということであるが、右改定の事実は存在しない。

原告が退職した平成七年八月一五日の時点において効力を有していた退職金規定は、昭和四六年四月から実施されていた給与・退職金規定であった。被告は、昭和六二年に、退職金規定の改定案を作成し、同年六月にその骨子を従業員に告知したことがあったが、その改定作業の中心となったのは原告であった。しかしながら、右改定案は、正式の改定手続きを経ておらず、単なる草案にすぎなかったし、また、仮に、原告主張のように、昭和六二年に退職金規定の改定が行われていたとしても、右昭和六二年の改定による退職金規定は、それ以前に適用されていた退職金規定(以下「旧規定」という。)に比して、自己都合退職者や経過措置が適用される従業員に不利益を及ぼすものであるから、無効である。

3  同3及び4の各主張は争う。

確かに、被告おいては、原告主張のように、本給(職能給)及び加給(勤続給)の合計金額を算定基礎額とし、これに原告主張の支給率を乗じて算定した金員を退職金として従業員に支給した例がある。しかしながら、原告が援用する(証拠略)は、本給のみを算定基礎額とする旨を明記しており、原告主張のように、本給及び加給の合計金額を算定基礎額としているのでないから、原告主張の算定基礎額が根拠のないことは明らかである。被告における前記支給例は、担当者の過誤にすぎず、そのような取扱いが慣行として確立されていたものではない。

4  同5の事実は認める。

ただし、後記のとおり、被告は、原告が退職した時点における退職金規定によって算定された退職金を支払ったのであり、未払分はない。

三  被告の主張

仮に、原告主張のとおり、昭和六二年に被告の退職金規定が改定されたとしても、被告は、平成七年五月一三日に、退職金規定の新たな改定を行った。この改定作業は、平成六年ころから始められ、原告も右改定作業に参加し、改定の経緯を知悉していたし、被告は、さらに、平成七年五月二〇日、担当者が被告の子会社であり、当時の原告の勤務先であった日宣印刷紙器株式会社(以下「日宣印刷」という。)に赴き、新規定についての説明を行った。原告も、右説明を聞く機会を与えられていたのであるから、仮に、原告が当日の説明を聞かなかったとしても、新規定が有効であることに変わりはない。

右平成七年の改定による退職金規定(以下「新規定」という。)によれば、退職金は、基本給(本給と加給の合算額)に勤続年数に応じた支給率を乗じて算定するものとされており、被告は、原告の勤続年数三一年四か月(新規定によれば、満五五歳以降の勤務期間及び休職期間は算入しないものとされている。)に対応する支給率を原告に有利に計算して二五・〇六六とし、これを基本給額の四〇万六一八五円に乗じて算定した一〇一八万一五〇〇円を原告に支給したのである。

四  被告の主張に対する認否及び原告の反論

1  被告の退職金規定が、平成七年に改定され、新規定が制定されたとの事実は否認する。

2  仮に、新規定が制定されたとしても、新規定は、退職金算定につき、原告の不利益に変更されたものであるから、その効力を有しないというべきである。

3  なお、被告は、一旦は原告の退職金の算定基礎額が四〇万六一八五円であることを認めながら、後にこれを争っている。原告は、右被告の自白の撤回に異議がある。

五  被告の再反論

新規定は、退職金支給率が下がり、満五五歳以降の勤務期間が算定されなくなった点で従業員に不利益といえる点はあるものの、退職金の基礎となる金額を満五五歳の時点のものとし(通常満五五歳に達した後は、右金額が低下する。)、さらに、自己都合による満五五歳以降の退職については会社都合の退職金支給率を適用するなど、原告のように満五五歳に達した後に退職する従業員に有利な面もあるから、新規定の制定が就業規則の不利益変更に該当するとはいえない。

さらに、新規定は、被告とその子会社であり、原告が取締役に就任し、また、被告との人事交流が盛んであった日宣印刷との退職金の格差を是正するため、被告の従業員の退職金を抑え、日宣印刷の従業員の退職金を増額する目的で行われたものであるから、合理性を有するというべきである。

第三証拠

本件訴訟記録中の書証目録及び証人等目録の記載と同一であるから、これを引用する。

理由

一  被告が広告図案の立案等を業とする会社であること、原告が昭和三五年八月二一日に被告に雇用されたこと、原告が平成七年八月一五日に被告を退職したこと、勤務期間中原告には一年六か月の休職期間があること、以上の事実は、当事者間に争いがない。

二  先ず、原告に適用される退職金規定について、検討する。

1  (証拠・人証略)の証言、原告本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実を認めることができる。

(一)  原告は、昭和六二年ころ、被告の管理部長であったが、上司の西垣侃一の指導のもとに、被告の給与、退職金規定を従前の勤続年数に応じた勤続給重視の給与体系(小森式)から職能給重視の給与体系(弥富式)に改定する作業に従事した。その結果、昭和六二年五月二一日ころ、退職金規定についての改定案(〈証拠略〉)が完成した。

(二)  被告及び関連グループ企業は、昭和六二年六月ころ、合同で伊豆方面への社員旅行を行ったが、その際、原告は、沼津湾に停泊していた船舶内において、被告が給与体系の見直しを行う旨を参加した従業員に対して告知し、右改定案(〈証拠略〉)の骨子を簡単に説明した。

(三)  被告は、右社員旅行の前後のころ、給与の計算関係につき、昭和六二年三月に遡って、前記改定案(〈証拠略〉)を全従業員に対し適用することを決定した。それとともに、被告においては、給与等の算定基準として、従来の評価方法にはない制度(例えば、各従業員の成績にしたがってS、A、B、C等の格付けを行い、これをもとに、昇給等の査定をする方法等)が導入された。

(四)  被告は、そのころ、前記改定案(〈証拠略〉)の内容を印刷し、給与・退職金規定(〈証拠略〉)として整備したが、右改定案及び規定には、退職金に関し、次の趣旨の記載があった。

(1) 退職金額は、算定基礎額に所定の支給率を乗じて算定する(なお、一年未満の端数は、原則として月割の比例計算とし、一か月未満の端数は、一か月として計算する。)。

(2) 退職金の対象は、本給とする。

(3) 支給率は、勤続年数(休職期間を除いた期間)に応じて定められ、勤続年月数が三三年六か月の場合は、三三・五であった。

(五)  昭和六二年から平成七年三月までの間に、高塚彰一ほか少なくとも十数名の者が被告を退職したが、被告の管理部長であった横江信春(以下「横江」という。)は、いずれの場合においても、各退職者に対して、基本給(本給及び加給の合計額)を算定基礎額とし、これに前記退職金規定中の支給率を乗じて算定した金員を退職金として支給した。

(六)  横江は、被告の従業員であった澤田良平(以下「澤田」という。)が平成七年三月に被告を退職した際、澤田の退職金額を試算したところ、一〇〇〇万円を超える額となった。そして、横江が被告代表者に対して澤田に対する右退職金支払いの決裁を求めたところ、被告代表者は、右退職金が高額に過ぎるのではないかとの疑義を示した。

そこで、横江が右退職金の算定方法につき調査した結果、昭和六二年の前記改定内容に反し、算定基礎額を本給(職能給)とせず、本給及び加給の合計額(基本給)として計算していたことが明らかになった。

(七)  なお、被告代表者は、澤田以前の退職者の退職金の支払いに際し、その都度決裁を行っていたが、各退職者の勤続年数が短かったことなどから、退職金額も比較的低額であったため、特段の疑問を抱くことはなかった。

2(一)  右認定の事実によれば、原告が昭和六二年ころ上司の指導のもとに被告の給与体系の見直し作業に従事した結果、同年五月二一日ころに改定案(〈証拠略〉)が完成されたこと、原告はこれを全従業員に周知すべく被告のグループ企業の従業員が一同に会する社員旅行の席で、右従業員に対して改定内容内容(ママ)の骨子を説明をしたこと、以後被告は右改定案に概ね沿った内容の新制度を導入し、とりわけ給与の計算関係については同年三月に遡って全従業員に対し適用したこと、その際導入された新制度の中には、各従業員の成績をもとに格付けを行い、これをもとに昇給等を決定するなど被告の給与体系全般にかかわる重要なものが含まれていたこと、被告は昭和六二年から平成七年三月までの退職者に対し、昭和六二年改定を前提とした退職金支給率に基づいて算定した退職金を支給していたこと(ただし、算定基礎額の点については、後に詳述する。)が認められ、右各事実を総合すれば、被告は、昭和六二年の夏ころ、従前の給与、退職金規定を改定して前記の内容の給与、退職金規定(〈証拠略〉)を制定したというべきである。

(二)  これに対し、被告は、(証拠略)は草案にすぎず、正式の退職金規定として制定、実施されてはいなかった旨を主張し、(人証略)はこれに沿う供述をしている。

確かに、(証拠略)には、確定的な表現が用いられていなかったり、将来の検討の余地を残しているかのように受け取り得る記載があるが、前記判示のとおり、被告においては、昭和六二年の時点において、給与、退職金規定の改定作業が進められ、改定案が作成されていたばかりでなく、その内容をグループ企業の従業員に説明したり、その後退職者に対して、算定基礎額の点を除いて、右改定案所定の算定方法に基づいて算定した退職金が支払われていたことに鑑みれば、右の時期に、被告における退職金の支給に関して何らの改定もなされなかったとは到底考えられず、したがって、被告の前記主張は採用できない。

(三)  また、被告は、右昭和六二年に改定された退職金規定が、旧規定に比して、従業員に不利益を及ぼすものであり、無効である旨を主張するが、そのような事情が認められる証拠がないから、被告の右主張は、失当である。

3  被告は、さらに、平成七年五月一三日に、被告の退職金規定が改定され(新規定)、原告に支給した退職金は、新規定に基づくものであるから、被告は、退職金支払義務を尽くしている旨を主張するので、右主張について検討する。

(一)  前掲各証拠に(証拠略)並びに弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実を認めることができる。

(1) 被告においては、被告と日宣印刷の退職金の不均衡が問題とされ、平成六年ころから、退職金制度の見直しを行うこととなり、原告も、中小企業退職金共済事業団(以下「事業団」という。)への加入などの提言を行うなど、右見直し作業に関与していた。そして、平成七年五月一三日に開催された被告の経営会議において、被告の退職金制度を全日本印刷工業組合連合会発行の中小印刷業モデル就業規則に例示されたモデル退職金支給規定の一つ(自社制度のみの場合のもの、以下単に「モデル」という。)に準じた改定を行うことが決定された。

(2) 新規定(〈証拠略〉)は、算定基礎額を基本給とし、これに勤続年数に応じた支給率を乗じて退職金額を算出するものとされているが、会社都合及び自己都合いずれの場合についても、支給率はモデルと同じ数値である。また、新規定では、満五五歳以上の退職者について、五五歳時の基本給を算定基礎額とし、五五歳以降の勤続年数を退職金支給における勤続年数に算入しない反面、自己都合による退職の場合にも会社都合による退職と同じ金額の退職金が支給されるものとされているが、モデルには、満五五歳以上の退職者を別扱いする制度はない。さらに、被告の新規定では、被告が事業団と締結した退職金共済契約や保険会社と締結した企業年金契約に基づいて支給された金員を退職金に充てる旨定められている。

新規定が書面化されたのは、前記経営会議の数か月後であった。

(3) 原告は、平成七年三月、給与の減額や降格を受け、その理由を質したのに対し、横江は、同月二四日、原告に対し、降格等は被告代表者の意向によるものであった旨を説明し、事前に知らせていなかったことを詫びた。その際、横江は、原告に対し、退職金の計算方法を試作中であり、現在用いられている以上のものにしたいとの考えを表明した。

(4) 原告及び横江は、原告の退職後、退職に伴う事務処理等に関して、書面のやり取りをした。その中で、横江は、原告の退職金について、当初平成七年八月三〇日ころまでには決定するとしていたが、実際に退職金の明細が明らかにされ、原告の口座に振り込まれたのは、同年一〇月四日であり、右明細を記した書面には、新たな退職金規定に基づいて算定した退職金である旨の説明が付されていた。原告は、退職金額の算定方法につき異議を述べ、横江との間で、書面のやり取りが続けられたが、埒があかなかった。

(二)  右認定の事実によれば、被告においては、退職金規定の見直しが検討されており、平成七年五月一三日に開催された被告の経営会議において、被告の退職金制度の改定が協議され、モデルに準じて改定することとされたといえるのであるが、新規定においては、支給率はモデルと同じであるものの、満五五歳以上の退職者の取扱いが異なり、また、モデルは自社制度のみの場合を対象としているのに対し、新規定は、退職金共済制度や企業年金制度を併用しているなど、内容においても、モデルと新規定とはかなりの相違がある。

右の事情に、原告の退職後も二か月近い間退職金の計算ができなかったことや新規定が書面化されたのが経営会議の数か月後であったことなどを考え併せれば、前記被告の経営会議においては、退職金制度改定の方向の大筋が定められたとしても、退職金の算定方法や支給条件等改定の具体的内容や細目が決定されたとはいえず、したがって、被告が主張する平成七年五月一三日はもとより、原告が退職した同年八月一五日までに退職金規程(ママ)の改定され、新規定が制定されたとすることはできない。

(三)  なお、被告は、平成七年五月二〇日、当時原告の勤務先であった日宣印刷に担当者が赴き、新規定についての説明をした旨を主張するが、本件証拠上、右説明の具体的内容が明らかにされてはいないのであるから、仮に、原(ママ)告の担当者が同日日宣印刷を訪れていたとしても、そのことから新規定が制定されたとの事実が認められるものではない。

(四)  以上判示のとおり、被告主張にかかる平成七年五月一三日の新規定制定の事実は認められないから、原告の退職金額は、前記昭和六二年に改定された退職金規定(〈証拠略〉)によって算定されることとなる。

四(ママ) そこで、以下原告に支給されるべき退職金額について検討を進める。

1(一)  原告は、算定基礎額が基本給(本給及び加給の合計額)である旨を主張するが、前記昭和六二年に改定された退職金規定(〈証拠略〉)は、賞与の対象を「本給・加給・役職手当」とし、時間外手当の対象を「基本給(本給+加給)」としながら、退職金の対象を「本給」と明記していることに照らせば、右退職金規定で定められた算定基礎額は本給であるといわざるを得ない。

そして、他に、昭和六二年の改定により算定基礎額が基本給となったことを認めるに足りる証拠はないから、原告の右主張は失当である。

(二)  次に、原告は、被告が昭和六二年の改定後、退職金の算定基礎額を本給から基本給に変更する旨の再改定をしたと主張するが、右再改定の事実を認めるに足りる証拠はない。

確かに、前記認定の事実によれば、昭和六二年の改定後高塚彰一ほか少なくとも十数名の従業員が被告を退職し、そのいずれの際も、横江が、本給ではなく、基本給を算定基礎額として退職金を算定し、支給していたのではあるが、本件証拠上、被告が原告主張の再改定に沿う内容の書面を作成した事実は窺えず(正式の退職金規定はおろか、その改定案が存在した形跡すらない。)、また、原告主張の再改定につき、被告の経営会議等において承認されたり、労働基準監督署への届出等の所定の手続が履践された形跡もない。

したがって、被告が昭和六二年以降に、基本給を算定基礎額として退職金を支払う旨の再改定をしたとの事実を認めることはできないから、原告の前記主張は失当といわなければならない。

なお、被告は、昭和六二年から平成七年三月までの間の退職者に対し、基本給を算定基礎額として計算した退職金を支給していたのであるが、この取扱いは、後記のとり(ママ)、横江の過誤によるものであるというべきであるから、右取扱いがあったことから、再改定の事実が認められるものではない。

(三)  さらに、原告は、被告が昭和六二年以降約八年間にわたって、基本給を算定基礎額として退職金を計算し、これを支給してきたとの事実をもって、基本給を退職金の算定基礎額とするとの慣行が成立していた旨を主張する。

なるほど、前記認定のとおり、被告が昭和六二年から平成七年三月ころまでの間、基本給を算定基礎額として算定した退職金を退職者に支給してきたのであり、右の事実によれば、被告においては、昭和六二年以降、基本給を算定基礎額として退職金を算定、支給するとの取扱いが事実上存したということができる。しかしながら、労使慣行が有効に成立するためには、労使間において、ある取扱いが相当長期間にわたって事実上行われていることのほか、労使双方、とりわけ使用者側において当該事項につき決定権限を有する者が当該取扱いの規範性を認め、これにより拘束されることを承認していたことが必要と解すべきである。

そして、前記認定のとおり、被告においては、昭和六二年以降基本給を算定基礎額として退職金を支給する旨の取扱いが事実上存したということができるのであるが、平成七年に澤田が退職した際、退職金額が問題となり、被告代表者の指摘を受けた横江がそれまでの退職金算定が昭和六二年に改定された退職金規定所定の算定方法に反していることに気付き、是正したのであり、このような事情に鑑みれば、結局それまでの取扱いは、横江の過誤によるものであったといわざるを得ず、被告が早期に右過誤に気付いていたならば、早急にこれを改め、本来の規定内容に従って退職金を支給していたであろうことが容易に推測できる。

右の事情によれば、前記基本給を算定基礎額として退職金を支給するとの取扱いについては、被告代表者など退職金の決定権限を有する者がこの取扱いに拘束されることを承認していたと認めることは到底できず、結局、原告主張の慣行の存在は、これを認めることはできない。

2(一)  以上のとおり、被告が原告に支払うべき退職金は、昭和六二年の改定の内容に従い、本給(職能給)を基礎とし、これに所定の支給率を乗じた金額である。

(二)  ところで、前記認定の事実、前掲(証拠略)及び原告本人尋問の結果によれば、原告に支給されていた本給は、平成七年二月分までは三一万四二九〇円であったが、同年三月分以降二六万五三三〇円に減額されたこと、原告が横江に対して右減額に対する抗議を行い、その理由を明らかにするよう求めたこと、右減額が被告代表者の意向によるものであったことが認められる。

右の事実によれば、平成七年三月分以降の原告の本給の減額は、原告の同意を得ることなく、被告が一方的に行ったものといわなければならず、他に原告の本給の減額を正当化できる事情も見当たらない。

したがって、原告に支給されるべき本給は三一万四二九〇円であるというべきであるから、退職金の算定についても、右金額の本給を算定基礎額とすべきである(因みに、被告の主張する算定基礎額の四〇万六一八五円も、原告の本給を三一万四二九〇円として算出したものと思われる。)。

そして、原告が昭和三五年八月二一日に被告に入社し、平成七年八月一五日に被告を退職したこと及び原告には一年六か月の休職期間があったことは当事者間に争いがなく、前記認定のとおり、右在職期間から一年六か月の休職期間を控除した三三年六か月の勤続期間に対応する支給率は三三・五であるから、原告に支払われる退職金は、三一万四二九〇円に三三・五を乗じた一〇五二万八七一五円となり、被告は、この金額から既払額の一〇一八万一五〇〇円を控除した残金三四万七二一五円の支払義務を負担していることになる。

(三)  なお、原告は、被告が、一旦は原告の退職金の算定基礎額が四〇万六一八五円であることを認めながら、後にこれを争ったことが自白の撤回に該当するとして、これに対する異議を述べている。

確かに、被告は、答弁書において、退職金が基本給(本給及び加給の合計額)に支給率を乗じて算定されるものとし、原告の基本給が四〇万六一八五円であることは争いのない事実である旨を主張している。しかしながら、被告の本件における主張は、原告主張の昭和六二年改定の退職金規定の存在自体を否定し、平成七年に改定された新規定が原告に適用されることを前提として、その算定基礎額が基本給の四〇万六一八五円である旨を主張しているものと解すべきであって、原告が主張する昭和六二年の退職金規定の改定の事実が認められた場合についてまで、算定基礎額が四〇万六一八五円であるとする趣旨とは考えられない。すなわち、被告の右主張は、これを実質的にみれば、原告主張の算定基礎額を自白したものとはいえないから、原告の自白の撤回に対する異議は、その前提を欠き、失当である。

五  以上の次第で、原告の本件請求は、三四万七二一五円及びこれに対する平成七年一〇月二四日から支払ずみまで年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で理由があるから認容し(前記認定の事実によれば、被告の退職金支払債務が遅くとも平成七年一〇月二四日までには遅滞に陥っていたことが明らかである。)、その余は失当であるから棄却することとして、主文のとおり判決する。

(裁判官 長久保尚善)

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